
浮かんでみる
三島由紀夫のあの衝撃的な自死からちょうど50年。出版や映像メディアはかなりの特集を組んでいるが、その死の真実は未だに謎のまま残されている。たしかに文学的にはとても興味をおぼえるが、それとは別にあの1970年代の記憶の底になんだかこの2020年との不思議な相似を感じるのだ。
わたしは17才でこれから青春がはじまろうとしていた。学生運動の真っ最中で、高校にもそれは波及し、学校側とわけもわからず対立していた。東大全共闘は安田講堂を占拠し、やがて機動隊の出動によって多くの学生が逮捕される。それが69年の1月で、その年の東大受験は中止になる。70年11月には三島由紀夫が憲法9条をめぐって、自衛隊に決起をうながし、挙句の果てに自害する。学生運動はその後内部から崩壊し、セクト間の抗争は多くの死者を出した。
そんな時代にいくつかのキーワードがある。それは大江健三郎のヒポコンデリーという言葉と五木寛之のデラシネという言葉だ。
ヒポコンデリーとは「心気症」と訳し、自分が病気ではないかと思い込んで不安をかきたてるという意味で、デラシネとは根無草という意味だ。両方とも何かを喪った不安とその何かがわからない不幸な時代を象徴しているのかもしれない。
わたしは、この時代が2020年と相似を感じると言ったが、まだはっきりとしたことが言えないでいる。もちろん表面的には青春の一時期を棒にふったり、人生の設計や計画がだめになったりしたことはあるだろう。しかしそうした表層的なことだけでなくあたかも機械にサビがはびこるように心のヒダのどこかがサビつきはじめているような不安を感じる。
今回のコロナウイルスについては、あと何年かで終息するという説や人類は永遠につきあいつづけなければいけないという説まで、数多ある。冗談ではなくわたしは本気で環境破壊がこの新しい病の元凶なのではと、秘かに思っている。たぶんCo2と何らかの関連があるのかもと…。
さて2021年の漢字は「浮」。
「浮」は浮草とか、浮かれるとか、果ては浮男なんて言葉もあり、あまりイメージは良くない。「浮世」はもちろん「憂き世」の発展形で無常の世のことである。
だからといえ、無常というのはあまりといえばあまりであろう。
それでなくとも人類は今その「生き方」を試されているのだ。何ものかの問いかけにずっと息がつまり、答えに窮しているのだ。
でもあわてふためく必要はない。喪われた時は、歴史のピースとして、考える材料にすればいい。もちろん問題点はたくさんある。
それらの問題点(現実)からすこしだけ浮いてみたらどうだろうか。この現実からすこしだけ浮かんで、足許を見直してみるのもいいかもしれない。浮遊感を感じながらそれでも現実ときちんと繋がっている状態。繋ぎとめておくためにはやはり知識と教養とそれに裏打ちされた思考力を養う必要がある。
ダンクグループ 会長 井上 弘治